“多聞言葉”シリーズ(探喫22‐08)
コミュニケーション
「“コミュニケーション”」について。
禅の公案にある「木が倒れても、それを聞く人がいなければ、音はしていない」という例えをあげて、この音こそが“コミュニケーション”の本質であると述べている。
これはドラッカーの諸説の中でもとても印象深い一節である。つまり、聞く人がいないと“コミュニケーション”は成立しないという。
そして、“コミュニケーション”の主体は情報の発信者だと思われがちだが、実は逆で、優れた“コミュニケーション”とは情報の受信者が主人公なのだと指摘している。
このように捉えてみると、円滑な“コミュニケーション”をするには、受け手の関心がどこにあるのか、知的水準はどのくらいかといった点を十分に考慮しなければならないということになる。
“コミュニケーション”とは、「伝達」のことであるが、私たちは「伝える」ことに熱心であっても、相手に「達する」ことができるのかには関心を払わないということが多分にあるのではないかと考える。
時々、職場で耳にする会話だが、「あれ、どうなった?」「あれって、何ですか?」
「あれは、あれだよ」・・・。そのやり取りをした時点では、お互いに合点したつもりだったと思うのだが、受け手のインパクトは弱かったのだろう。
私たちの社会は“コミュニケーション”をベースに成り立っているといえる。にも関わらず、コミュニケーション能力を高めるための訓練をきちんとしている人は意外と少ないように思える。
コミュニケーション能力は、次の4つの項目から構成されているという。
- 意思伝達力(=自分の考えを相手に伝える力)
- 論理的表現力(=筋道を立てて説明したり文章にできる力)
- 好感表現力(=感じの良さを意図的に表現できる力)
- 対人調和力(=相手の意図や感情を理解し、配慮できる力)
これら4つの能力を高める方法としては、次の5つの方法を意識したいと思う。
- 「報連相」を徹底させる
- 「結論~理由~根拠」の順に伝える
- 常に気持ちよい挨拶をする
- まずは相手のことを受け止める
- 5W1Hを意識して話す
“コミュニケーション”は大切なので、心して身につけたいと思う。
緊急支援要請 エンバシ-オブウクライナ
三菱UFJ銀行広尾支店普通預金0972597
露軍攻撃ノ報二接シ連合艦隊ハ直チニ出撃此レヲ撃滅セントス本日天気晴朗成レドモ波タカシ
(R4.2.28)
ムダな会議 多聞言葉シリ-ズ(探喫22-05)
「同友会では“ムダな会議”が多すぎる!」という意見をよく耳にするが、口にしないまでも、そう感じている人たちが意外と多いような気がする。
だが、本来、組織とは協働行為の体系である以上、お互いの意思を確認し、お互いの考えを共有できる状態になるため、コミュニケーションの場としての会議は、当然ながら有って然るべきである。それがなぜ、ムダな時間として批判されるのであろうか・・・?
私たちの時間をムダに消費しているものと誰もが思い込んでいる会議があるとすれば、そこには改善の余地が大いにあると考える。
同友会もどちらかというと、会議の時間が多い方だと思うので、“ムダな会議”にならないように、常に意識し、改善・改革を心がける必要があるだろう。
“ムダな会議”の特徴として、よく指摘される内容に次のようなものがある。
- 目的がない
そもそも会議とは、会員が集まって意思決定や議論を行い、衆知を集める機会である。会議を開く際、目的を明確にすることは何よりも重要である。
- 意思決定をしない
議論が過熱してしまい、どうしても結論を出したり意思決定できなかったりするケースがある。そうならないよう事前に大まかな進行を計画しておく必要があるだろう。
- 不要なメンバーが参加している
議題に直接関係のない人間にとっては、問題意識も低く、沈黙の時間となり、“ムダな会議”だったという印象しか残らないし、その場にいても貢献できることもないだろう。
- 定められた時間を守らない
会議中には、論点や話題が逸れないように、議論の方向性を調整する必要がある。時間管理を適切に行いながら、議事進行に努めることが大事である。
- 資料が多すぎる
資料の準備に時間がかかるだろうし、参加者が会議中に多くの資料から該当箇所を探すことにも時間が要する。会議の目的を考慮して要点をまとめた資料を配布するように工夫する。
昔から、「小田原評定」という諺がある。誰も責任を負って決断しようとせず、いつまでも結論がでない会議や話し合いのことをいうのだが、そのために北条家は滅んでしまう・・・。
元来、会議とは組織の重要な課題に対して、衆知を集め、どうすべきかを決定する大事な場である。上記の“ムダな会議”の特徴をしっかりと吟味して、有意義な会議の場をつくれるように考えてみたいと思う。
同友会からのメ-ル案内で(再送)とされているものは、なりすまし、が散見されますので注意が必要です。会員の皆様は十分に注意されたい。
(R4.2.7)
”多聞言葉”シリーズ(探喫22‐06)
天与の道
「自分には自分に与えられた道がある。“天与の尊い道”がある。どんな道か知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道」(松下幸之助)。
ここで言う“天与の道”とは、使命のことであろう。
つまるところは『我道譲らじ』紙こより画に繫がっていくのである。
「人生100年時代」という言葉をよく耳にするが、織田信長が好んで謳ったという「人間五十年、下天のうちにくらぶれば夢幻のごとくなり」の時代からすると、人間の寿命は驚くほど延びている。
考えてみると、一昔前までは、小生もそうだったが、60歳まで一生懸命働いて、その後の余生(せいぜい10~15年)を、田舎で土に勤しみながらゆったりと自由気ままに自然の中で生きていきたいなどと、考えたりしたものだ。
だが、70代に近い今、「人生100年時代」だという。100歳まで30年・・・。余生というには勿体ないほどの時間がある。過去に価値観に縛られて過ごすわけにはいかない。
会社に定年があっても人生には定年などない。その人生をどう生きるか、再考してみる必要がありそうだ。