修養
渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでいると、「“修養”は理論ではない」という言葉に心が惹かれた・・・。
そういえば、“修養”という言葉を耳にすることが少なくなったような気がして、辞書で調べ直してみると、“修養”とは「学問を修め、徳性をみがき、人格を高めるよう努めること」とある。
戦前の日本の教育には、「修身の時間」があったが、GHQの占領政策の一環で日本の教育現場から姿を消してしまったという。その修身と同義である。その政策を聞いたある外国人有識者が、その当時、アメリカの占領政策に対して「非人道的な行為だ」と批判をしたらしい。
“修養”とは、自分の精神的な成長のために取り組むことであるが、今風の言葉でいうと、「自分探しをする」、「自己啓発する」、「アイデンティティを確立する」等々であろうか。つまり、「自己実現」をめざすことであろう。
かつての修身の教科書には、「吉田松陰を始め、勝海舟、加藤清正、米国初代大統領ワシントンなど、古今東西の偉人の話が載っていたのです。そして、その方々の具体的なエピソードを通して、“正直”、“勤勉”、“正義”、“公益”などの徳目を教えていました」とある。
歴史上の偉大な人物の生き様から、人間としてのあるべき姿を学ぶことによって、自らの徳性をみがき、人格形成をするための学習には、大変意義深いものであっただろうと想像に難くない。
よく指摘されてきたことでもあるが、戦後の日本の教育は、知識教育を偏重し過ぎて、
修身で教えていた徳目や、日本の歴史、文化、慣習を蔑ろにしてしまったのではと思う。その結果、エコノミック・アニマルと揶揄され、日本人の精神性の低さが問題視されるようなこともあった。
紙こよりの会にとって運が良かったのは、8年前の『太陽艇・墨字絵隊』(主宰・中田龍鳳)との出逢いである。「人間としていかに生るべきか?」ではなくて、大切なのは「人間としていかに生きたか?」であるということを教えて頂いたことである。
読む本の選び方、尊敬すべき人物とはどんな人なのか、物事の優先順位の決め方など、すべてが変わったような気がする。
本日は山口多聞提督,77年前に航空母艦飛龍とともにミッドウェイ沖に轟沈された日でもあるのだ。心・技・体のバランスを考えて学び、そして実践し、“修養”を積みたいと思う。