”多聞言葉”シリーズ(探喫8‐18)
観想
今回の『墨字絵隊観閲式』(第5期⑤)で、「紙縒り墨字絵」について研修をし、討議してもらっていたとき、ふっと思い浮かんだのが“観想”という言葉である。その語源は、ギリシャ語のテオーリア(theōria)起因する概念だという。
“観想”とは、表面的な理解を突き抜けて、より深い意味を探り、物事の本質を洞察することである。アリストテレスは、理性(=考える力)こそが人間の本質であるから、観想的な生活を送ることこそが最大の幸福であるとした。
情報化社会に生きている現代人は、何か分からない事が出てきてもインターネットで調べれば、すぐに分かる。そう、深く考えることをしなくても、いっぱしの議論もできるし、すっかり知り尽くしているかのごとく思い込んでしまう傾向がある。
情報過多の気忙しい環境で生きていると、浅く広くの知識の詰め込みが習慣化され、薄っぺらな思考しかできなくなり、目の前で起きている現象的な事実に対応することばかりに気が奪われて、その奥にある本質を見失ってしまう危険性をつねに潜んである。まさに、モグラ叩きの状態である。
今のアーティストにとって、“観想”の習慣を持つことは極めて重要な事だと考える。なぜなら、変化に翻弄されず、その奥にある真実を洞察するには、自らの頭で深く考え抜くしか方法がないからである。
“観想”とは、一つの特定された問題に焦点を当てて、それを深く考え抜くことである。心をそこへ集中する必要がある。例えば、今回のテーマである「新たなる創造」について次のように自問自答し、考えを集中してみよう。
① これはどういう意味なのだろうか?
② その提案の意味していること、目的とは何だろうか?
③ 自分にとって、どんな意味があるのだろうか?
④ この考えを作品に活かせるだろうか?
⑤ 我が芸術家集団に問うたら、どう答えるだろうか?
どうだろう?どれぐらいの時間を、そのテーマに集中できただろうか・・・。また、どのような考えが浮かび、整理できたであろうか。思ったほど、集中力が持続しないことに驚かされる人もいるだろう。
以前に、ある先生が言っていた事を思い出す。『心とは、「ころころ」するから「こころ」って、言うのだ・・・』と。あらゆる雑念を取り除き、一点に心を集中させるためには、はやり、それなりの訓練が必要だ。
そのためにも、“観想”の習慣を身につけるように努力をしたいと考える。
大変多くの方に身に来ていただき感謝感激です。 G南蛮 中田伸吾(龍鳳)
(H29.5.29)