”多聞言葉”シリーズ(コハ-26)
寛容
“寛容”とは、広辞苑によると「1/寛大で、よく人をゆるしいれること。咎めだてせぬこと。2/善を行うことは困難であるという自覚から、他人の罪過をきびしく責めぬこと。キリスト教の重要な徳目。3/(tolerance)異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと。」とある。
“寛容”な人とは、愛と豊かさに溢れた人のことで、一流といわれる人物には“寛容”という徳を備えた人が多いという。「寛」という名を授けられた日本人男性が意外と多いが、そんな想いを託されたのだろう。
土光敏夫氏は、「権限はすべて譲っても、責任だけ残るのが社長だ」という言葉を残されたが、蓋し名言である。「サルも木から落ちる」が如き、油断や怠慢から生じた部下の失敗に対しても責任を問われる・・・。どれほどまで、人として“寛容”でいられるのであろうか。
もともと、tolerance(“寛容”と訳す)の語源には、「耐える」、「我慢する」という意味があるそうだが、一流の人物が備えている“寛容”とは、その次元を超えた「相手を受け入れる心のひろさ」だと考えたい。
人(経営者)にとって“寛容”を試されるのは、どんな時だろう・・・。
1/ 部下や他人の失敗を許せるか
2/
意見の対立があったとき
3/
不可解なことに直面したとき
4/
どうしても許せない相手がいるとき
5/ コミュニケーションが円滑に行かないとき
6/ チームプレーが必要なとき
7/
人種や文化等の多様性を受け入れようとするとき
では、“寛容”であるためには、どう自らを処したらいいのだろうか・・・?
“寛容”とは、他人の出方に左右されることではなく、とことん自分自身の心の有り様
だと考える必要がある。“寛容”であるか否か、すべて自分の課題として向き合うべきだろう。
「言うは、易し」である。だが、実際に“寛容”であり続けることの難しさを誰もが感じているに違いない。つい、打算、傲慢や慢心、忘恩、復讐心、虚栄心など自己中心的な態度をとってしまう・・・。
「世の中は、無常と無我」(釈尊)、つまり関係性においてしか成立していない。自他非分離こそ、自己を生かす道・・・。“寛容”でありたいと考える。
(H27.7.13)